2011年8月22日月曜日

「試打リポート」日米比較の話

日本の「高弾道ドライバー」が飛ばないのは[理論的]に実証されている

ところが、大半の消費者にはこうした事実を知らされていない。ドライバーが次々に販売されているが、消費者に的確な情報が伝達されないことに要因がある。これはゴルフ業界だけでなく、あらゆる産業分野で見られる日本社会の構造的問題である。
日本は明治政府に始まり第2次世界大戦中までの言論統制の長い歴史がある。そして、戦後は米国GHQ支配下によるの言論統制が敷かれきた。この為、マスコミはニュースや情報は与えられ「発表する」作業に慣らされてきた。
今回の福島原発事故に於いても、大手マスコミは事故当初から「政府発表」しか報じて来なかった。社命により50km圏内には入らず事実確認の取材を放棄し編集加工した「政府発表」を流して来た。放射能の汚染に関しても、「汚染牛」だけを取り上げ他の畜産物や海産物、農作物の汚染を全く報道せずに安全風評を流し続けている。海外メディアは、こうした報道姿勢に対し「日本の放射能は「牛」だけに汚染する」と揶揄している。

日本の報道は、取材対象の領域に踏み込み「事実確認」を行う姿勢が全く見られない。一方、欧米は「報道」の概念が強く公平中立を是とするジャーナリズム論が根底にある。
「発表」と「報道」の概念の差は大きく。情報を「報道」するには取材対象の領域に踏み込む知識・行動力が求められる。ところが、「発表」は情報ソースを確保するだけで充分である。日本にはジャーナリズムの基本概念が実践される土壌が無い。

ゴルフクラブ情報の重要な役割を果たすのは、ゴルフ情報誌であることは日本もアメリカも変わらない。ゴルフ情報誌の収入源が広告費であることは日米共に共通だが、情報内容や伝達の仕方に大きな差がある。
アメリカのゴルフ情報誌は100%ではないが概ね客観的な報道が行われている。娯楽性の高い日本のゴルフ情報誌は、話題は提供するが「報道対象の事実確認」や「客観報道の原則を守る」報道姿勢は見られない。日本はスポンサーの支配力が強く、スポンサーの意向に配慮した情報が発表される傾向にある。モラルの低下では無く、元々ゴルフのジャーナリズムにはモラルが存在しない。

アメリカの「試打リポート」は、科学的な実験データーやゴルフ理論を明確にした上「性能比較」を行っている。一方、日本のゴルフ評論家が「科学的な実験データーやゴルフ理論」を発表したのを見たことが無い。自動車の性能は、馬力やエンジンの大きさを比較することで判断できる。ところが、ゴルフクラブの性能比較は、単純に数値比較だけでは判断できない難しさがある。つまり、理論的な裏付けや科学的な検証がより重要な要素になるだろう。例えば、「高弾道ドライバー」を比較検討する時、高弾道理論に基づいた「基準」が定義されていなければ客観的なリポートは作成できない筈だ。


多分、日本のメーカーは米国と同様の実験データーを所有している。何故こうしたデーターを公開しないなのか。何故、「性能基準」を明確に定義しないのだろうか?
「性能基準」を曖昧にすることで責任の所在を曖昧に出来る利点がある。反対に「性能基準」が明確化すると、ドライバーの「性能差」が科学的に実証される。飛ばない商品は売れなくなる。
また、試打テストの基準も明確化され、テストする「人」の資質が問われる。ある一定レベルのゴルフスキルを習得した評論家が、何発か試打すれば必ず目標とする弾道を打つことは可能である。客観的なリポートを作成するには、「科学的な検証」だけでなく「試験者の資質」が求められることになる。

モラルの存在しない業界体質の中で行われる「試打リポート」のテストは一体誰のための行われているのか。資質に問題のある人間のテストに何の意味があるのか。
「試打リポート」のカラクリは、雑誌社とメーカーお抱えのゴルフ評論家が「発表」する情報操作にある。何の根拠もない興味本位の記事をあたかも科学的なリポートのような錯覚を与えている。曖昧な試打リポートは「遊び」でしかなく、発表されるコメントは評論家の主観に基づく「感想」でしかない。無責任な評論家の「感想」はメーカーの宣伝文句の様な曖昧な甘い言葉で綴られている。
理論的に飛ばない「高弾道ドライバー」があたかも飛ぶように情報操作する。これがゴルフ報道のカラクリである。

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